一緒に作っていきたい | 曽田 元子
その頃は、アートや市民活動に対する興味はあったんですか?
市民活動は…皆が集まって仲良く活動するのって「なにそれ」みたいな感じで冷めていて、ちょっと協調性が無かったかも。大学受験に失敗したのが、冷めた人間になった大きなきっかけかもしれません。
ほお。受験に失敗した。
当時の母校(県立山口中央高等学校)は9割方、国立・公立・私立と良い大学に進学していて、勉強してないから「もうここしか入れるところがない」というような短大に行ってしまったのですよ。母校の生徒は、今よりも町の中でお嬢さま扱いされていて、制服を着て通学しているだけで、大人たちにチヤホヤされていました。今では想像も付かないですけどね。だから、どことなしに優越感に浸っている自分が居ました。
でも、受験に失敗して、目標も無いまま進学してしまい、友達も作らず、人生にすごく冷めていましたね。本当は、写真を撮ることが好きで、カメラマンになりたいと言っていたんです。
ほお。
そしたら、親に反対され、進路指導の先生には「うちは進学校だから。」と言われて理解してもらえませんでした。私の考えは間違っているの?だったら、とりあえず進学してから考えたほうが良いのかな?と進学の道へ進みました。
まあいいか、という感じですか。
そういうところで、もっとちゃんと自分の意思を持たなきゃいけないな…って、徐々に思い始めていた時期ですね。高校に入ってからは、写真を撮るのが面白くて。その頃はデジカメじゃないですから、現像・停止・定着液に入れて、すごくアナログな写真をやっていたのです。液状から浮き上がって写真が出来上がるのがすごく楽しくて。写真に3年間燃えていましたね。でも、単純に写真が面白いだけで、将来の展望が明確で無かったので両親にも先生にも反対されましたね。結局、広島の短大へ行きました。
短大を卒業して、すぐに戻ってこられた。
はい。当時は進学難・就職難で、皆悶々としていましたね。教育課程の変わり目で、志望通りの大学に行けない子も多くて。世の中の流れに流されていった友達が多かったです。地元に帰ってきた友達も「なんか面白くないよね」という感じでしたね。
そんな曽田さんが、今の活動に辿り着く、直接的なきっかけは何かあったんですか?
元々、親の遺伝子なのか世話好きな子だったんですよ。そうしたくもないのに、ずっと班長や学級委員長をしていました。そうすると、クラスや班の中でも目立たない子っているじゃないですか。そういう子にも「皆一緒のほうが楽しいから」と思って、必ず声を掛けていましたね。相談室を借りて友達と真剣に問題解決の話し合いをしたりするなど、不思議と人のお世話をすることがありました。短大のときも、大学祭実行委員や歳末助け合いの募金活動をしていました。率先してやるわけではないけれど、そういうことに引き込まれることが多かったですね。
冷めた若者のすることではないですね。
そうなんですよ。先輩が怖かったからかも知れませんが(笑) あ、知らない土地だったからかも知れませんね。ずっと地元に居ると、地元の人に飽きちゃうんですよね。
飽きちゃう?
実家がお寺だったから、常に誰かが干渉しに来るんですよ。何か事を起こすと近所で当分言い継がれるという。
恐ろしい・・・
今思えば、保守的な変な町でしたね。勉強できる子が良い子…と、成績で線引きされる時代だったのかも。
騒いでいた?
小学校の謝恩会で、NHKの「連想ゲーム」を再現したり、高校のときは学園祭で「新婚さんいらっしゃい」を、女子高でやったんですよ。そういえば、舞台で受けを狙ったことをやっていましたね。
それは曽田さんプロデュースで?
そうですね。今思えば、私が「これをやろうよ」と言って周りを巻き込んでいたと思うんです。
その頃から、企画をしていた。
そういえば企画をしていましたね。