出来ない理由から探さない | 天野 いつか

最近、面白い恋愛映画を見たんです。『Before Sunrise』っていう、列車の中で出会った男女が、ずっと喋りながらパリの街を巡る、会話で話が進む映画。たぶんそれ、学生時代に一度見てるんですよ。だけど、そのときは全然面白くなかった。だから全然記憶にも残ってないし。でも、10年経った今見たら、会話で恋愛モノって面白いなって。会話って大事だなって。人と話すって面白い。

例えばそこに目的地があっても、そこに行くまでの道のりでする会話が楽しかったら、行き着いた先は別にそこまで問わないというか。やっぱり会話が最高の娯楽じゃないかなって、最近よく思います。で、喋り始めると、時間が足りない(笑)

元々喋るのは好きなほうですか?

そうですね。喋るのも好きだし、目立つのが好きでした。でも一回挫折というか。中学生のときに、合唱コンクールで伴奏者をやったんですよ。自分から立候補して。ピアノも習ってたし。で、練習は快調ですごく上手に弾けてたのに、いざ本番で、お母さんたちが来て、全校生徒が揃って、バンッって叩いた音が全然違う音で。絶対出来ると思っていたから、余裕をかまして譜面を持っていってなかったんですよ。「待って…落ち着いて落ち着いて」と思って、もう一回バンッて叩いたら、また違う音で。で、皆が「えっ?えっ?」みたいになっちゃって…。

それから目立つのが苦手になりました。一時期ずっと引っ込み思案。「私はもう出来ない」って。でもそれでずっとやってきて、大学~就職ってなったときに、とりあえず実家に戻りたかったので、大分の企業という企業を受けまくったんですよ。信用金庫とか、銀行とか、デパートとか。で、唯一受かったのがケーブルテレビだったんです。アナウンサーとして。

何でも良かった?

何でも良かったんです。とにかく、その当時は大分に帰りたかったので。大分のどこかしらの企業に入って、生計が立てられるだけの収入を貰って、困らないくらいにはしたい、というのがあったから、とにかくどこかしらに引っ掛かるといいなと思って。特に大きな目的もなく。

で、手当たり次第受けて、唯一受かったのがアナウンサーという。まったくアナウンサーの勉強なんかしてなかったけど、それだけ受かったんです。で、行くようにしてたんですけど、その頃に長崎で出会いがあって、やっぱり大分には帰らないことに。

で、長崎でラジオレポーターの募集を見つけて、「これしかない!」と思って受けたら通ったんです。そこからです、喋りの人生。

何年ぐらい勤めていましたか?

それが…一年で赤ちゃんができちゃって(笑) 一年勤めて、辞めて、出産して、一歳になったときに復帰を考えて。やっぱり喋りしかないよね、って思って。何も残ってなかったんですよ。ラジオを一年間経験した事で、解りかけて辞めたから、もっとやってみたいという気持ちはずっとあった。

でまあ、娘の障害のこともあって、当時スタジオのパーソナリティをしていた、ごうまなみさんに色々と相談していたんです。で、復帰しようというときに、ごうさんが「一緒にやろう」って言ってくれて、自分たちで事務所(Lip marks)を立ち上げて。そこからです、フリータレントとしての活動が始まったのは。

ごうさんが私の人生を左右してるっていうのはある。ごうさんが居なかったら、今の私は無いし。喋り手としても、障害を持つ子供のママとしても。ごうさんもシングルマザーだし、私も一回シングルマザーを経験してるんで。いろんなことで助けてもらってます。