出来ない理由から探さない | 天野 いつか

今はどういうときに楽しみを感じますか?

自分が一番楽しいって感じているのは、やっぱり動いているときでしょうね。例えば、IWJの取材で岩国に行ったりして、そこで知り合った人たちといろんな話が出来る。で、ソーシャルメディアで繋がって、お互いの事をよく知ったような感じになって、また行ったときに「今日も頼むね!」みたいな、頼りにされてるんだなって、「撮って欲しい」って気持ちで居てくださってるんだなっていうのが分かると、こっちも嬉しくなる。

なので、すごいハードなんだけど、次は北九州だ!福岡だ!って、そうやって動いているときに、忙しいんだけど、楽しい。必要としてる人が居て、必要とされている自分が居ると、そのために「頑張ろう」って思うし。

でも一方で子育ても、この前運動会があったんですけど、お母さんお父さんの出場競技も多いし、子供がずっとずっと練習して本番で出来るようになってるのを見ると、すごい成長してるっていうのが分かる。子供って予想外のことを言ったり、考えてたりするから、そういうのを見てるのも楽しいって思うし。

だから今、逆に楽しくないことがないんじゃないかな?っていう感じです。今なにか楽しくないことってあるかな?って思ったら、何も無い。何が楽しいか?って言ったら、やっぱり ”人との関わり” なんでしょうね。根っこの部分は。絶対一人じゃ何も出来ないから。

動いているときの内容に拘りはあると思いますか?

内容にあんまり拘りはないのかな…後でこれがどうだったああだったっていうのは…IWJに関しては「もっとこういうことを聞けばよかった」というのは出てくるけど、その瞬間は自分のベストでやっていると思うので、あんまり内容に拘りはないのかも知れないですね。そういう意味では。

行動するときの原動力は自分の意思?それとも使命感のようなもの?

撮ってる最中に、自分の意思表示的なものは絶対あるんですよ。でも、見ている人の中には、(原発やオスプレイに)反対じゃない人も居るし、反対してる人も居て。出したくなるけど出さないようにしながら、目的としては、見ている人がどう捉えるか。自分のこととしてまず捉えてもらうっていうのが、私の中では目的でやっているので、それが反対であろうが賛成であろうが、関心を持って欲しいからやってるって感じなんですよね。

それが使命感なのか…頼られている…いや、それはたぶん使命感でしょうね。頼られているからじゃなくて、もっとこう、見えない部分を知ってほしいから「私がやらなきゃ誰がやる」ぐらいの(笑) 誰でもやれるけど、結局まわりに居なかったりしたら、じゃあ私がやんないと、結局この状態は見えないままだなって。だからやっぱり使命感でしょうね。

長崎のころは、もちろん伝えることも大事なんですけど、意識の置き方が「どう見られたいか?」のほうにいってたかな。上手いと思われたいし、良く見られたいっていうのがあったけど、今の活動ではそういうことを考えた事はない。下手糞でもいいからありのままを伝えて、どういう考えを持ってもらえるか?のほうにシフトしてて。だから、私個人がどう見られたいか?っていうのは全くなくなったかもしれないです。

自分自身に関心はありますか?

自分自身に関心…(少し考え)今は楽しいことが多いから、ちょっと痛いかもしれないですけど、自分の将来が楽しみ(笑) 見えないし明確な目標があるわけじゃないけど、今33歳で、40歳になったとき、50歳になったとき、60歳になったとき、自分が何をしているかとか、どういうことを考えていて、誰に会っているのかとか、子供がどうなっているかとか、すごい楽しみ。

明確な目標があるわけじゃない。

ないんです。ないんだけど、自分のこの先にワクワクしてる。根拠もないんですけどね(笑) 全然ないけど、でも絶対楽しいような気がするし、もちろん大変なこともあって、ほんとに考えていかなくちゃいけないことも勿論あったうえで、自分がどう動けるか?とか、自分がどう関わっていけるか?とか、たぶんそういうことを考えているうちに、自然に道が出来てくるような気がして。

で、動いてるときって、そういう関連の方たちとのご縁ってすごいあるんですよね。だから、そういう人たちとの出会いもすごい楽しみだし。