人との繋がり、支え合い | 森田 晶子
ずっと下関にいらっしゃるんですか?
そうです。生まれたときから。
高校を卒業されて、お店を始められるまでに10年ぐらいありますが、その期間はどうやって過ごされていたんですか?
服屋に勤めていたり、ショットバーに勤めていたり…パチンコ屋や雀荘に勤めていたこともあります(笑) あとは製薬会社の総務経理部の事務もやりました。すごい変な経歴しかないです。服屋、バー、雀荘、パチンコ屋、女性下着の営業補佐…そこで結婚して…あ、パチンコ屋は結婚してからか。
職種にこだわりはなかったんですか?
初めはありましたね。高校のときから古着屋さんをやりたくて。「古着屋さん兼バー」みたいな、カウンターがあって、夜はお酒が飲める古着屋さんをやりたかったので、そのために服屋さんとバーと事務系は必須だと思って、とりあえずそこの経験は積もうと思ってやったんですけど…結婚して子供が出来ると、夜まで営業とか今の時期は出来ないので。
とりあえずモノを作ることを再開したら、雑貨屋さんをやりたくなって。で、下の子が小学校に上がるときに、(雑貨屋さんを)やっていいと主人から言われたので。結婚してからはお金のことしか考えてなかったから、時給の良い仕事しかやっていなかったんですけど、お店を始めるって決めて、すぐ仕事を辞めましたね(笑) 12月にお店を始めると決めて、その月に仕事を辞めて、1月から内装を始めて、2月にオープンしました。
ものづくりは、仕事を始める前からやっていらっしゃったんですか?
前からやってましたね。
そのときはどういうものを作っていらっしゃったんですか?
一番初めはちっちゃいときに、着れなくなった服を解いて、切って、継ぎ合わせて、クッションカバーとかを作っていました。高校のときは服屋でバイトをしていて、人と同じ服を着るのが嫌だから、そこで服を作り始めて。結婚してからは、子供のものをメインで作り始めて。イベントだけ出店して、普段はパート勤務、みたいな生活をしていました。
子供の頃からものづくりに興味があったんですね。
好きでしたね。
それは何かの影響があったんですか?
うーん、影響…無心になれることが好きだったから、ですかね?何も考えなくて済むので。黙々と篭ってやるのが好きでした(笑)
作ったものを誰かに見せたり、あげたりはしていたんですか?
してないですね。なんていうかな…暗い話をしても大丈夫ですか?母親がずっと癌だったんですよ、小さいときから。だから、病院について行って、静かに何時間も待たなきゃいけない状況が出来ていて。そのときにばあちゃんが編み物を教えてくれて、それで編み物をしていたら何時間も経つし、静かだし。そこからたぶん、ゴソゴソとやることが始まっているんですよね。それが幼稚園ぐらいのときなので…
本当にずっと手を動かしていたんですね。
そうですね。作ることは好きです。