緊張感 | 原田 佳代子

戻ってこられたのは、どういうきっかけで?

きっかけはですね…ずっと漠然といつか帰ろうかな、とは思っていたんですけど、なかなかきっかけがなくて、ずっときっかけを探していたんですけど…実際に帰ったときは、直感です。

直感。

実際に帰った年のお正月に、ふと「帰ろう」と思って。それまでは、…何か帰る理由が要るな、と思っていたんですけど。ふと、お正月に「帰ろう」と思って。それから数日後に、所属していた事務所に「辞めます」と言って(笑) でその年の、春に帰ってきました。

じゃあ、帰ると決めてからは、割ととんとんと話が進んで…なんでしょうね、2007年のお正月に、「帰ろう」と思われたんですね。

そうですね、特に何かがあって、というわけでもないんですけど。

直感で動くことは多いほうですか?

多くはないんですけど、割と大きな決断は、散々悩んで悩んで、ぽっとなんでもないときに動ける、というか…USJを辞めるときもそうだったんですけど、秋ぐらいに「今年辞めよう」と思って、自分で辞める日を設定したんですよ。12月26日に辞めようと(笑)

12月26日には、何か理由があったんですか?

それはですね、その頃はパレードキャプテンという仕事をしていたんですけど、パレードの仕事がすごく好きだったので、最後はキャプテンで終わろうと思って。それがいつも木曜日だったので、12月最後の木曜日にしようと思ったのと、誕生日が1月26日なので、誕生日の1ヶ月前に辞めて、1ヶ月間で気持ちを切り替えて、と。そのときが24歳になる年だったので、ちょうど年女だし、24歳からまた新たなスタートにしよう、と思って。1ヶ月間の準備期間があって、気持ちも新たに24歳でMCとしてやっていこう、と思いました。

何かを決断するときに、もやもやと悩んでいる時期と、スパッと決める時期と、触れ幅が大きい気がしますね。

そうですね。結構悩むんです。悩んで悩んで、あれこれ心配するんですけど…いざというときは、何か分からない力であっという間に動くんです(笑)

(笑) 悩んで悩んで決めた、という感じでもないですね。

ないです(笑) なんかこう、「あ、もう辞めよう」とか「次こうしよう」とか…また、何か自然と、良いタイミングで色々なご縁に恵まれているな、と思いますね。何か次を探しているときに、そういうアドバイスを頂いたり、誰かと出会ったり、そういうご縁にとても恵まれていると思います。

面白いですね。ご自身の筋書きを決めて歩んでいく、という感じではないですね。”ご縁”と仰いましたけど、本当に良いタイミングで転機が訪れて、それに乗っかって転進されている感じがしますね。

そうですね。そのときは全然気付かないんですけど、振り返ってみると、今までやってきたことが、すべて一本の線で繋がっているな、と思います。見事に。

見事に。

うん。英語なんかも、何となく教科の中で得意だったから…と思ってやってきたことが、ぽっと仕事で活かせたり。でもそこで既に、着物とか日本の文化というものを、英語を学んだことで、早い段階で気が付いているんですよ。だから、着物を着れるようになったのもUSJで働く前なんです。私は子供の頃はずっと着せてもらっていたので、恥ずかしながら大人になっても、全然自分で着ることが出来なかったんですよ。でも、そういう色々なことがあって、着物ぐらい着れるようになろうと思って、大阪の学校で着付けを習ったんです。

そうなんですか。

着付けは母親に習ったわけではないんです。大阪で着付け教室に通って習ったんです。そこでお友達が増えたりもして…着物仲間というか。その方たちから、色々と学ぶことがあり。その頃はまだ20歳とかそのぐらいだったんですが、色んな年代のクラスメイトの方々とお友達になって、とても楽しかったです。

一旦そこで着物とは全然離れてしまうんですけど、USJで働いて、MCの声を掛けていただいて…MCになったときも、常に200人の前で毎日喋っていたという経験は、かなり活かせたと思います。人前で喋ることに対する”場馴れ”は少し身に付きましたし、突然のアクシデントにも…対応出来ていたかは分かりませんが、そういう経験もして。

でも、MCになったことによって…今度は関西のお祭りやイベントの仕事を沢山させて頂いたんですけど、初めて来た私には地域性というのも分からないですし、言葉の違い、風習の違い…何もかも分かった地元の方がされる方がいいんじゃないかなと思っていたんです。

そうですね。

地名など「そんなことも知らないの?」という…そういうことも色々あって、「せっかくMCのお仕事をするんだったら、地元のためにやりたいな」という気持ちがあって、それもあって帰ろうと思ったんですね。

あとは、帰る前の年の夏に、高校野球中継のアルプススタンドのレポーターをやっていたんですけど、そのときにたまたま宇部商(山口県立宇部商業高等学校)が出てまして。私は母校でもなんでもないんですけど、子供の頃から宇部商が大好きで、小学校の頃も父と一緒に甲子園球場まで応援に行ったこともあったので、宇部商の担当をそこで出来たというのも、ひとつ大阪でしか出来ない大きな仕事が出来たな、という…ちょっとそこで達成感はあって。それもあったので、たぶん「今辞めよう」という風に思えたんだと思うんですけど。